作新学院高等学校の校名になっている「作新」という名は、江戸時代にあった黒羽藩の藩校(藩士の子弟を教育するための学校)「作新館」から継承したものです。明治に入り、この藩校は廃校になりますが、これを嘆いた小山田辨助という人物が船田兵吾らに勧め、明治21(1888)年に新設された学校の名称として用いたのが始まりです。
「作新館」の名称は幕末の黒羽藩主大関増裕が勝海舟に頼んで付けてもらったと伝えられています。一説によれば中国の『書経』(孔子の編)に書かれた「作新民」からとったといわれます。しかし正しくは『大学』(儒教の経書)にある殷の湯王が使用した水盤(水を入れた容器)に刻みつけられた銘文からの引用と思われます。湯之盤銘日「苟日新、日日新、又日新」康誥日、「作新民」つまり、常に心身を清新に保つべし、という意味の戒めを示し、作新民とは民を奮い起こさせ気分を一新するという意味を持っています。兵吾はまさにこれからの新しい時代を迎えるにあたり、この名称がふさわしいものであるとして用いたのでしょう。
明治18年、兵吾が経営を任された下野英学校は当初馬場町42番地(宇都宮)にありましたが、その後、二里山(現在の県立図書館の地)へと移転しました。
学校の建築に際しては田中正造をはじめとして菊地三郎・上野松次郎・手塚五郎平ら有志十数人が建築資金を出し合いました。開校当時の校舎はわずか50坪(165㎡)で生徒数は86人でした。 私財を出し合って励ましながら経営に着手した下野英学校でしたが、3年後には経営難となり、市内にあった同様の事情の私立学校が合併して新しい学校を作ることになりました。そして、ここに新設される学校の校名として、旧黒羽藩の藩校(藩士の子弟を教育する学校)作新館の名称を受け継ぎ、私立作新館が誕生しました。後に、館長となった兵吾は学校経営に努力し、明治28(1895)年には尋常中学校としての認可をうけ、さらに明治32(1899)年には中学校としての認可をうけて校名を私立下野中学校としました。そして教育施設の整備に努め、学校発展の基礎をつくりました。
明治35(1902)年には、第1回卒業式が挙行され20人の卒業生が巣立っていきました。
船田兵吾の心血を注いだ教育環境の整備と人間を育てる教育が県民に浸透し、明治の末ごろからは生徒数が増えるようになりました。
大正時代に入ると第一次世界大戦の勃発に伴う大戦景気が、さらに拍車をかけ学校は順調に発展していきました。各学年3学級、全校生徒も700人に達し教師陣も一段と充実してきました。例えば船田中(のちの衆議院議長)、齋藤龍太郎(『文芸春秋』の初代編集長)、船田小常らが教壇に立っていました。 しかし大正13(1924)年になると学校は大きな危機を迎えることになります。それは某書記による卒業証書偽造事件が問題化し、官憲による学校干渉が行われるようになったからです。それから15年は苦境の時期を迎えることになりました。この間兵吾は学校の廃校を決意しましたが、兵吾の長男中の奔走によって廃校だけは免れました。
しかし、県の補助金交付が中止されてしまいました。 心労と無理を重ねた兵吾は大正13年ついに帰らぬ人となりました。(享年57歳)
兵吾の教え子たちは県から送り込まれた新校長の排斥を求め、血判状を作って辞職勧告決議文を提出したり、校舎内に籠城して抵抗しましたが及ばず、ついに翌年には船田家の経営から離れ財団法人化されてしまいました。そして昭和15年まで県の役人による経営が行われることになりました。
財団法人化してからの下野中学校は苦境にあえいでいました。入学者の減少と昭和初期の経済不況と相まって学校経営は悪化するばかりでした。昭和12(1938)年に日中戦争がはじまると政府は国民精神総動員運動を推進しました。このため国を挙げて戦争を支援し、教育の現場では愛国精神を徹底的にたたきこまれるようになりました。本校においても、勤労運動や軍事教練、学校林の造営が強制されました。
太平洋戦争が起こる前年の昭和15(1940)年すべての理事を民間人とする全民の財団法人への改組が行われました。それ以後の下野中学校はこれまでにない活気に満ち、翌年には定員800人に近い生徒数755人になりました。またこの年、良妻賢母の育成のため財団法人作新館高等女学校が市内清水町(現千波町)に創立されました。 昭和20(1945)年、戦争が激しさを増す中で生徒たちは軍需生産、防空防衛など戦争遂行のための訓練に明け暮れるようになり教育機能は失われました。
6月に入ると中小都市への爆撃が本格化し翌月には宇都宮市街地も焦土と化してしまいました。市内清水町の作新館高等女学校も校舎は全焼し、二里山の下野中学校も校舎の一部が焼かれ、生徒2人が死亡しました。焼け出された女学校の生徒たちは下野中学の校舎と軍需工場とを交互に通うことによって、辛うじて学校生活を続けました。3年8カ月にわたる戦争は終わり学徒動員で出かけていた生徒たちは学校にもどりました。
戦後、校舎を失った作新館高等女学校の生徒たちは宇都宮第一高等女学校(現宇都宮女子高)の一部校舎を借りて授業を行いました。その後、西原の旧軍隊の兵舎、翌年には一の沢町の旧輜重兵舎へと移転しました。
昭和22(1947)年には二里山にあった下野中学校も女学校に隣接する騎兵連隊の跡地(現一の沢キャンパス)に移転し、作新学院高等学校が以後、この地で発展する素地が築かれることになりました。広大な校地を譲り受けるにいたっては、下野中学校の卒業生が船田小常とともに幾度も米軍司政官を訪ね懇願し苦労の末ようやく希望を果たすことができたのです。
昭和22年3月「学校教育法」が制定され6・3・3・4の学制改革が行われると、下野中学校・作新館高等女学校が合併し、新制高校の高等部、新制中学校の中等部からなる。財団法人作新学院高等学校が発足しました。そして同25(1950)年には財団法人から学校法人に改組され、理事長兼学院高等学校長に船田享二が就任しました。また、生徒総数も1300人余となりました。
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